昭和27年4月9日、朝日新聞の夕刊の一面を飾った大誤報である。
上左-昭和27年4月9日と4月10日の朝日新聞の記事、上右-Martin2-0-2、もく星号
下左-バラバラになったもく星号、下右-もく星号墜落で亡くなった大辻司郎氏の息子(大辻司郎氏)
戦後初の民間航空機「もく星号」は昭和27年4月9日に羽田(名古屋経由福岡行き)を離陸後20分で消息を絶った。三原山に激突し、翌日バラバラの機体が発見された。乗客33名乗務員4名の計37名が亡くなると言う日本航空史初めての大惨事であった。
ナショナルフラッグの日航機だが、運航と機体所有はノースウェスト社にあり、営業のみを日本航空が行っていたもの。スチュアート機長の操縦ミス・飲酒説、管制官のミス等取り沙汰されているが、米国側が封印をしたまま分からず仕舞いである。
問題となったのは、憶測による「全員救助」の朝日新聞の報道である。翌日には「全員の生存絶望視」と変わる。朝日新聞だけが誤報を流した訳ではないが、救助されてもいないのに「全員救助」としたのは不味い。
特に長崎民有新聞には、死亡していた乗客の大辻司郎氏のインタビュー記事まで載せている。「長崎の復興平和博覧会に招かれていく途中でした。この事故で出演がおくれ、長崎の人にすまないと思っています。しかし、二度と得られない経験です。僕の漫談の材料がふえたわけで、わざわいがかえって福となるとはまさにこのことでしょう。長崎平和博では、さっそくこの体験談をやって、おおいに笑わせてやるつもりです。これから長崎に急行します」
当時、朝鮮戦争の最中であり、日本はGHQの占領下にあった。この墜落事故の19日後にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本は独立を回復するのである。
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