
Manzanar War Relocation Center ウィキペディアより

同跡地 ウイキペディアより
【共同通信12/22ワシントン】第2次大戦中にカリフォルニア州などに設けられた日系人強制収容所跡地を史跡として保存する法案が21日、ブッシュ米大統領の署名により成立した。史跡保存基金などに充てるため、3800万ドル(約44億9000万円)の歳出権限を内務長官に与える内容で、強制収容所跡の保存活動の後押しとなりそうだ。保存対象はカリフォルニア州マンザナーなど計10カ所の跡地。
◇唸声コメント
11万人以上の日系人が全財産を失い収容所へ抑留される。彼らは米国市民でありながら、日本人として、異国の地に根付いていった。その苦労は想像に難くない。
ひとたび事が起きると外国で生活する人間にはこうした不安が常につきまとう。これは脅かしではない現実の問題である。特に日本のすぐそばにそうした国がある。
【ウィキペディア 日系人収容所所在地地図】
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/96/WarRelocationMap.jpg
【ユタ州History for Kids トパズ収容所入口写真】
http://historyforkids.utah.gov/homework_help/counties/images/Millard__Topaz.jpg
【ユタ大学Images from Topaz Topaz Rams Football Team】
http://www.lib.utah.edu/spc/photo/9066/t37.htm
トパズ収容所のフットボールチーム
【Topaz War Relocation Center 跡地写真】
http://ludb.clui.org/ex/i/UT3170/
【National Park Service Tule Lake Relocation Center全体写真】
http://www.cr.nps.gov/history/online_books/anthropology74/images/figure13.4.jpg
【ユタ大学Photographs from Tule Lake Tri-State High School】
http://www.lib.utah.edu/spc/photo/9066/t27.htm
この写真を見ると日本人の環境適応能力の凄さを感じます。
スタートレックの操舵士、ミスター加藤(役名はヒカル・スールーですが、なぜか加藤と呼ばれるジョージ・タケイ) 少年時代にこのツールレイク収容所で過ごしています。
◇ジョージ・タケイ氏に対するインタビュー(2003/4/15 Seikyo Mediaより抜粋)
*収容所に入れたのは“自国民”
――第2次大戦中の体験を聞かせてください。少年時代に“日本人収容所”に入りましたね。
いいえ、“日本人収容所”ではありません。まず、その点を訂正させてください。私たちは当時からアメリカ市民でした。ですから日系アメリカ人が入れられた収容所は“アメリカ人収容所”なのです。
よく勘違いされるのですが、私たちはアメリカ人でありながら、“日系”というだけの理由で自国・アメリカ合衆国の政府により監禁させられたのです。
真珠湾攻撃の時、私は4歳で、戦争が終わって収容所から出てきたのは8歳。幼心にも、家族とともに連行された日のことは鮮明に焼き付いています。突然に銃を突きつけられ、仕事も、財産も、家も、将来の夢も、すべて奪われたのですから。
1年後、私の家族は北カリフォルニアのツールレイク収容所に移動させられました。なぜか?――そこに戦時下の隠れた歴史があります。
*「心の尊厳」を守った両親
日米開戦の直後、日系アメリカ人の青年男女が、他のアメリカ人と同じように、我が国を守るべく次から次へと兵役登録に行きました。しかし、彼らは「敵性非外国人」という意味の4Cというレッテルを貼られ、従軍を拒否されました。「敵性非外国人」とはどういう意味か。外国人でないならば自国民のはずですが、私たちはそう呼ばれなかったのです。すでに軍隊にいた日系人は武器を取り上げられ、耐え難い屈辱を受けました。
しかし1年もたつと米軍の人手不足が明らかになり、政府は収容所の中に兵士として使える人々がいることに気づきます。そこで政府は「質問書」によって17歳以上の日系人の忠誠心を測ったのです。
多くの質問項目がありましたが、政府が関心をもったのは次の二つです。第27項では“あなたは、合衆国を守るために武装しますか”と聞きます。さらに、第28項は一つの文章に二つの質問が含まれています。“あなたは合衆国に忠誠を誓い、日本の天皇への忠誠を断ちますか”――すなわち、この質問に「イエス」と答えると、“私はアメリカに忠誠を誓います”と表明すると同時に“かつて私は天皇に忠誠を誓っていましたが、今はその誓いを進んで放棄します”と告白することになるのです。アメリカで育ち、天皇への忠誠を考えたこともない日系人にとっては侮辱的な、狡猾な質問でした。
多くの人々が悲痛な思いを飲み込んで「イエス」と答え、アメリカのために戦場へ行って勇敢に戦いました。その一方、“政府は私の財産や自由を奪えても心の尊厳までは奪えない”と毅然として「ノー」と答えた人々もいたのです。私の両親もそうでした。
二つの質問ともに「ノー」と答えた人々は“ノー・ノー”と呼ばれ、危険分子を隔離する収容所に送られました。それがツールレイクで、三重の有刺鉄線フェンスで囲まれ、見張りの戦車が6台ありました。多いときには1万8千7百人ほどが収容され、半分は私のような子どもでした。