写真はブラウン神父の撮影したタイタニック号/BackChinaより
http://news.backchina.com/viewnews-191213-gb2312.html
ブラウン神父は1912/4/10にタイタニック号で英国のサウサンプトン港を出航し、フランス・シェルブールとアイルランドのクィーズタウンへ寄港し、4/11にクイーンズタウンで下船し、難を逃れた。タイタニック号はこのまま、ニューヨークへ向かい、4/15に悲劇の沈没をむかえる。ブラウン神父は教会の管区長から電報を受け、急遽クィーズタウンで降りている。このあたりが、謎であり、イエズス会の陰謀との話もあるくらいだ。1960年にブラウン神父が亡くなり、その25年後に42000枚以上のネガが見つかり、1000枚以上がタイタニックに関するものであった。この写真を基にして映画「タイタニック」が作られた。
1912/4/11、タイタニック号に荷物を積み込んでいるところ。クィーズタウンでブラウン神父は下船しているのに荷物を積み込んでいる写真をタイタニックから撮っている???積み込んでいる最中に、「今すぐ、降りろ」との電報をもらったのか?
タイタニック号のプロムナードデッキ
1912/4/11、タイタニック号のデッキでアイルランドのレースを売る女性、このアイリッシュクロレッシュレースは1846年のジャガイモ飢饉で外貨を稼ぐためにアイルランドから輸出されたもの。
1912/4/10、ポーツマスで停泊するタイタニック号
タイタニック号内のトレーニングジム、船の中で舟を漕ぐ
タイタニック号の甲板の上で遊ぶ子供とボッーと見ている大人
タイタニック号の書斎、とても船の中とは思えない
ブラウン神父の泊まった特等室、おじが切符を手配してくれたと言うが、このあたりも何か妙な違和感がある。当時の世界一の豪華客船の特等室であれば、その価格も図抜けている筈だ。ただ、ブラウン神父は早くに両親を亡くしており、このおじに育てられている。どうも、船の中でニューヨークの大金持ち夫妻に出会い、援助をしてもらったとの記述もある。
タイタニック号の一等レストラン
タイタニック号の無線室で働くハロルド・ブライド二等通信士、彼は最後までSOSを送り続けた。彼は氷山の警告をカリフォルニア号より三回も受けており、ブリッジに報告を上げている。彼は生き残ったクルーでもある。1956/4/29、 66歳で肺がんにて亡くなった。
タイタニック号に運ばれる郵便と小包
乗組員が信号灯をチェックしている。半袖のシャツを着た乗組員の上にタイタニック号の号鐘が見える
タイタニックはタグボートの「ヘクター」と「ネプチューン」と軽く衝突と書かれているが、タグボートに押してもらっているだけではないのか?
1912/4/11 13:55 アイルランド・コーブ市、タイタニック号は最後の碇を上げて、運命の航海に出る
アマチュアカメラマンでイエズス会のブラウン神父、1911年~1916年はダブリンで神学と哲学を勉強中であり、この時におじのロバート・ブラウン司祭からタイタニックのプレゼントを受け取っている。1960/7/7、80歳にて死亡。
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