▼唸声の視点終点/浅草寺にて、仁王像

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写真は浅草寺宝蔵門の阿形像(上左)と北の湖、吽形像(下左)と明武谷/ネットから合成、なるほど似てると言えば似ている?足の膨れた血管が迫力満点、これなら点滴も一発でOK!

 

宝蔵門は、ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏の寄進により旧仁王門を再建、昭和39(1964)4月1日上棟式。

 

阿形像(左)制作:錦戸新観  モデルは入門したての北の湖

吽形像(右)制作:村岡久作  モデルは幕内力士の明武谷

木曾檜造り 重さ各約1,000kg

 

錦戸新観氏は、明治41年に茨城県真壁郡大宝村(現下妻市大宝)で生まれ、昭和5年より高村光雲門下の山本瑞雲氏に師事し、当初は日展などに作品を出品していたが、昭和28年以降は信仰の為の仏像制作一筋に精進。平成7年死亡

 

村岡久作氏は明治44年、山形県村山市楯岡生まれ、佐崎霞村氏門弟、昭和18年、第6回文展初入選。昭和21年、第2回日展初入選。昭和38年、浅草寺に仁王像制作。昭和56年、村山市名誉市民称号授与。平成元年1月28日死亡

 

モデルを選んだのは、大谷米次郎氏かもしれない。彼は砺波山(後に改名して鷲尾獄)の四股名で褌担ぎから幕下筆頭にまでなるものの、手の指に障害を負っていたことが原因で幕内に上る事を断念している。相撲取りだった彼が選んだのは当時11歳で入門したばかりの北の湖、その北の湖がのちに横綱になるのだから、その選択眼は凄い。

 

明武谷は大関目前まで進むものの、1969年11月場所限り引退し年寄中村を襲名、宮城野部屋で後進の指導に当たり審判委員も務めていたが、1977年1月限りで廃業。転職して会社員となり、更に会社役員を務めながらエホバの証人の伝道活動を行っている。-ウイキペディアより-

 

ちなみに宝蔵門の有名な500kgの大わらじは、山形県村山市出身(村岡久作氏も同)の松岡俊三氏(自由党衆議院議員)の呼びかけで昭和16年に村山市から奉納、日支事変戦勝祈願の護国大わらじであった。昭和39年の宝蔵門落慶記念に大わらじの架け替えを行い、これ以降ほぼ10年に1度の架け替えを行なっている。

 

こんな大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのかと驚いて、魔が逃げていくと言われている。わらじの大きさは450cm、靴サイズ25cmの男性の身長が165cmとすれば、約30mもの巨大な番人(ヒトとすればだが)が浅草寺を守っていることになる。

 

今では中国人観光客がこの大わらじを背景に写真を撮っていく。同じことが抗日祈念館でもあるのだろうが・・・。

 

 

 

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唸声


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このページは、唸声が2011年7月21日 00:17に書いたブログ記事です。

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