以下の写真は一列目左から三番目が西園寺公一氏、隣が周恩来総理、その隣が南村志郎氏。
http://www.zhou-enlai.com/data1/0004/1971/0141.htm
昭和46年(1971)12月20日、今からちょうど41年前の写真である。西園寺公一氏は中国では老朋友と呼ばれているが、ゾルゲ機関のスパイだったし、コミュニスト、日本の為に動いていたとは思えない。それでも日中の太いパイプ?中国が敬意を払う日本人をよく見れば、全て日本の為に何かをなした人ではない?そうした人士を日中友好の太いパイプとは笑わせる。中国に利する日本人のみを彼らは認め、そうでなければ、全て右翼と片付けてしまう。先人たちが築き上げた日中友好とは何か?日本人が考えている友好と中国人の考えている友好はどうやら質の違うものらしい。中国と太いパイプを維持できる日本の政治家は出で来ないだろう。河野談話のように日本から叩き潰されるパイプなどは何の役にも立たないどころか有害である。安倍首相!河野談話の取消しをお願いしますよ!
【IZA12/17-《世界人間模様》中国 気骨の83歳 日中友好にささげた生涯 いまも現役】
「日中の先人たちが苦労して築き上げてきた友好関係が崩壊の危機にある。かけがえのない関係を立て直したい」
南村志郎(83)は北京の自宅マンションで静かに語った。傘寿をとうに過ぎたが、かくしゃくとした白髪の紳士だ。愛用のパイプがよく似合う。
■西園寺公一の秘書役
1960年代初め、友好商社員として北京に滞在中、西園寺公一と出会って意気投合、西園寺の秘書役として日中友好の道を歩んできた。
西園寺は、戦前に首相、元老だった西園寺公望の孫だ。中国の首相、周恩来と親しく、周から「民間大使」として招かれて北京で対日窓口を務めていた。「西園寺-周ライン」は日中間の太いパイプで、南村は西園寺とともに周とよく会って話した。
「当時の指導者の中でも周総理は飛び抜けて包容力があり、人間的な魅力にあふれていた。暮らしぶりは質素で、西園寺は敬愛する周総理にならって、古い下着につぎを当てて着ていた」
中国大連で生まれ、中学生の時に北京で終戦を迎えた。帰国後、東京外大(中国語学科)に入ったが、左翼学生運動を指揮して退学処分に。鉄鋼業界通信社の記者を経て友好商社に入った。
日中の歴史を思う時、南村には忘れられない記憶が2つある。
56年10月、北京で開かれた日本製品の展覧会場前で、年老いた女性が日の丸を掲げた旗ざおにしがみついて泣き叫んでいた。「息子は日本軍に殺された。新中国になったのになぜこの旗が翻っているの」
周りにいた人々が同じ思いで女性を見詰めていた。戦後初めて中国を訪れた20代の南村は「戦争被害者の痛みを思い知った」と言う。
60年代初め、中国の指導者の一人が日本からの訪中団との会談で「加害者(日本)は過去を忘れまいとし、被害者(中国)が忘れようとすれば将来の日中は明るい」と話した。南村はその寛容さに感動した。
「今はまったく逆だ。正しい歴史認識は日中関係の基礎であり、指導者が言った原点に立ち戻らなければならない」
国交正常化40周年を迎えた今年、両国は尖閣諸島をめぐって、これまでになく激しい対立を繰り広げている。“日中の懸け橋”として生きてきた南村にとって、身を切られるようなつらさだ。
「政治家同士のパイプがない。後藤田正晴や野中広務を最後に中国と太いパイプを持つ後継者が育っていない」と南村。
国交正常化の前は、西園寺事務所として、三木武夫(後に首相)の訪中、周との会談をセットしたこともあった。「西園寺-周」のパイプを補佐してきた南村には、今の日中間の意思疎通の欠如がとても危うく映る。
■ボランティアで交流支援
「両国民の感情も悪化する一方。民間友好の立て直しが必要だ。日中の相互理解を促すために何かしなければ…」
93年に西園寺が死去。南村は西園寺事務所に活動資金を提供してきた船会社の社長を長年務めてきたが、96年に会社を解散した。以来「ボランティア」として手弁当で中国の友人たちと友好事業を手掛ける。
2006年から毎年1回、日本の記者・学者を招く中日友好協会のプログラムに協力。07年から2年間、天津科技大学で開いた「日中友好交流講座」を企画した。
今年7月、秋田県と天津市が調印した交流計画もサポートした。
横浜に家があるが、1年の半分以上は妻、恵津子(81)と北京で暮らす。糖尿病のため自分でインスリンを注射し、会議や出張で忙しい毎日だ。「責任感が強くとても頼りになる人。昔は亭主関白でしたが、それを変えてくれたのが、中国の文化大革命でした」。ユーモアを交えて話す恵津子も若々しい。
南村は中国を知るからこそ、見る目も厳しい。
「官僚の腐敗はあまりにもひどい。『このままだと共産党は政権を失い、また革命根拠地、井岡山からやり直しだぞ』と中国の友人たちに言ってやりました」。昭和ひとけた生まれの気骨にあふれた言葉だ。
(敬称略、共同/SANKEI EXPRESS)
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