写真はナチ戦犯Erich Priebke 1940年と2012年の状況/YouTubeより合成
プリーブケ親衛隊大尉は上官の命令に従って、「アルデアティーネの大虐殺」を行った。33名のドイツ兵がイタリアのパルチザンに殺害され、その報復で、ゲシュタポが捕らえていたイタリアの共産党員やユダヤ人など15歳から74歳の330名(ドイツ兵1名につきイタリア人10名)がリストアップされ、アルデアティーネ洞窟で跪かせて背後から小脳を打ち抜いて殺害した。洞窟内が死体だらけになったので、死体の上に跪かせて銃殺、リストにない5名も殺害してしまい335名が洞窟の入り口を爆破され封印された。
戦後、プリーブケ親衛隊大尉はアルゼンチンに逃れ、自分の名前を冠した肉屋をやっていたが、追手は来なかったことに安心してか、1994年ABCTVのインタビューに、81歳の自分がゲシュタポであったことや処刑した相手がテロリスト(パルチザン)であることを話してしまう。この番組が米国で放映され大反響を呼び、アルゼンチン政府はプリーブケSS大尉を拘束する。以下がその時のインダビュー、インタビュワーはサム・ドナルドソン氏
【産経7/29-高齢ナチス戦犯、100回目の誕生日はそっと…】
【外信コラム】イタリア便り
第二次世界大戦末期の1944年3月23日のことである。ローマを占領中のドイツ軍の小隊がイタリアのパルチザンの攻撃を受け、約30人の兵士が殺害された。
ナチス・ドイツのゲシュタポ(国家秘密警察)でローマの長官だったカプラーは報復のため、監禁中のイタリア人将兵や労働者らから335人を選び、部下のプリーブケ大尉に命じてローマ近郊アルデアティーナの採石場跡で銃殺させた。
ローマでのナチスによる最大の虐殺事件で、犠牲者の命日には毎年、処刑場跡の記念碑に政府高官が参列して冥福を祈っている。
戦後、カプラー長官はイタリア軍事法廷で終身刑を宣告され入獄していたが、ローマの陸軍病院に入院中の77年に夫人の助けを借りてドイツに逃亡。翌年、死ぬまで平穏に暮らした。
一方、プリーブケ大尉はアルゼンチンに逃亡し、約50年暮らした末に逮捕。イタリア側に引き渡され、法廷で終身刑を宣告された。
だが、裁判所は被告の高齢を考慮して自宅での拘禁とし外出も許した。この結果、10年前の7月29日の90歳の誕生日には、ローマ郊外で誕生会を開くこともできた。
明日の100歳の誕生日は、さすがに犠牲者の遺族の声を気にして内輪で祝うようだ。(坂本鉄男)
上官の命令であってもC級戦犯として、日本兵も裁かれている。戦勝国は上官の命令で原爆を投下しても、軍事作戦として戦犯にはなっていない。イタリアは死刑がないので最高刑は終身刑、しかし、終身刑でも26年すると仮釈放もある。重罪犯も26年間、模範囚であれば、仮釈放される。
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