写真は英国人ハリー・ポッターのお墓、1939/7/22に亡くなっている/ディリーメールより(2010/11/29)、ちびまる子ちゃんにこんなキャラクターいなかったかな?
イスラエル中央地区の都市ラムラ(Raml砂の意味)郊外のラムレ英国人兵士墓地にハリー・ポッターは眠っている。1939年7月22日、ヘブロンにて従軍中、アラブ人の暴動の際、狙撃され19歳で戦死した。
バーミンガム生まれのハリー・ポッターは17歳で歳を一つ偽り入隊、8ヶ月の訓練の後に1938年9月、パレスチナでのアラブ暴動からユダヤ人を守る任務についた。1年経たないうちに亡くなってしまったのだが、家族は彼がどうなっているのかが分からなかった。家族がたまたまネットで有名になっていたイスラエルの墓地でのハリー・ポッターを見つけたのであった。
以下はラムラの英語版の観光案内、反転箇所がハリー・ポッターの記載
http://ramla.muni.il/eng/index.asp?id=1310#top
ハリー・ポッターの前には、エドモンド・ロスチャイルドの孫息子の記載もある。
彼がハリー・ポッターと言う名前でなかったら、どうなっていただろうか?彼の横にはきっと無名戦士の墓がずらりと並んでいるだろう。
以下はミルトスからの抜粋である。当時のイスラエルの事情が簡潔にまとめられている。
『ユダヤの民族再興と祖国再興運動は、初めからアラブの過激民族主義者によって妨害されました。彼らの強烈な反ユダヤ感情は、1920年、1921年、1929年そして1931年から39年にかけて、反ユダヤ暴動となって爆発しました。
アラブ暴徒はユダヤ人の輪送機関を襲い、苦心して育てた森や畑に火をつけ、ユダヤ人の町や村を攻撃し住民を殺傷しました。ユダヤ側から全く挑発行為がないにもかかわらず、アラブはテロに訴えたのです。
当初ユダヤ側はアラプとの対話で和解の道をさぐろうとしましたが、結局うまくいきませんでした。それ以後、シオニズムとアラブ民族主義は完全に離反し、いつ衝突してもおかしくない対立関係へとつき進みました。
英国政府は、対立する二つの民族主義運動がそれぞれの目的を有することを認め、1922年委任統治領分割に続き、1937年には新たな分割を提案しました。つまり、ヨルダン川以西の地域をユダヤ、アラブの2カ国に分割するのです。ユダヤ指導部はこの分割案を受け入れ、ユダヤ機関に英国当局との交渉権限を与えました。一方アラブは一切の妥協を拒み、いかなる分割にも反対しました。
アラブの大規模な反ユダヤ暴動はやまず、英国当局は1939年5月に白書をだして、ユダヤ人移民の大幅制限に踏み切りました。当時ヨーロッパでナチのユダヤ人抹殺政策が進行中で、英国当局の措置によって、ユダヤ人は逃げ場を失いました。
この政策に抗して、指導者のダビッド・ペングリオン(後の初代首相)は、第二次大戦勃発後「我々は、白書がないものとして戦争に協力して戦い、そしてまた戦争がないものとして白書と戦う」と宣言しました。
第二次大戦では、男女2万6000人のユダヤ人が連合軍に義勇兵として志願し、ナチス政権と戦いました。ユダヤ旅団が編成されて英国軍の指揮下で戦ったほか、英国の陸海空軍に編入されて活動しています。』
http://myrtos.co.jp/info/history02.php#Q9
まさにハリー・ポッターは1931年から1939年にかけて起こったアラブ暴動に対して投入された英国の兵士であった。
ただ、この文からはなかなか読み取れないが、同ミルトス編集長の河合一充氏の「イスラエル建国の歴史物語」によれば、英国はアラブ宥和策を取り、アラブ暴動の鎮圧には消極的であった。これはアラブ人とユダヤ人の軋轢を利用し、英国がパレスチナを実質支配下に置くことを意図していたのではないかと述べている。英国の伝統的植民地支配の戦略である分割統治(divide & rule)そのものであると。
さらに1939年5月、英国はマクドナルド白書でユダヤ人の移住を制限し、国土開拓の制限もした。英国はバルフォア宣言で、ユダヤ・シオニストに共鳴し、これを支持すると表明していたが、この白書は、英国がユダヤ人国家を作る意図がないことの証明であると河合氏は説く。
ユダヤ最大の敵ナチスを倒すまでは英国と敵対することは得策ではないと多くのユダヤ人は考えていたが、当然ながら、反英レジスタンスも登場する。1939年7月、ハリー・ポッターはアラブ人から撃たれたのか?それともユダヤ人から撃たれたのか?
反英レジスタンスは1943年12月ベギンがイルグンの総指揮官となってからであり、歴史的にありえないとのご指摘あり。訂正いたします。
グーグルマップ:ラムレ英国人兵士墓地↓British Military Cemetery
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