写真は↓韓国のブログより、一番初めの写真は本町二丁目入口です。
「モダン都市京城の巡礼-鐘路・本町」の展示写真↓Flickrより
http://www.flickr.com/photos/omoroi/sets/72157627772882257/with/6245600239/
近くて遠い隣国ですが、一定の距離を持ち続けることが我が国の平和に繋がります。近づきすぎて良いことなど何もありません。いつの時代にも「新時代」はありますが・・・。
【IZA11/1-《from Editor》日韓新時代 よみがえった「京城」の街】
10月上旬、韓国文化院で開かれた「モダン都市京城の巡礼-鐘路・本町」の展示を見た。京城とは、日本統治時代の韓国・ソウルのことである。タイトルから分かるように、この催しは日本時代の京城の街並みと建築物を再現し、建築学、都市工学の面から評価と検証を行うというものであった。とはいっても、韓国では戦後長い間、日本時代は徹底的に否定され、総督府であった建物まで解体・撤去されたほどであったから、当時の姿を再現し、展示するのは容易なことではなかった。
企画したのはソウルの漢陽大建築学部の冨井正憲教授。消滅した戦前の京城の都市空間を地図の上に再現してみようと決意したのは20年以上も前のことだった。「これからのソウルの都市設計を考えるうえでも、日本が行った京城の近代化を研究することは避けて通れない」と痛感したからだ。
それまでは、戦前の京城に生まれ育った人々の記憶を頼りに作成したイメージマップが、部分的に存在していただけで、番地や商店が詳細に記入された地図は存在しなかった。その後、同じ目的を持つ日韓の研究者が集まってソウル近代都市建築研究会が発足し、当時の地図、電話帳、商工名録、新聞記事、写真、絵はがきなどを集めて緻密(ちみつ)な復元作業が行われた。日本人も含め、住んでいた人々の記憶も動員された。
会場には壁面いっぱいに復元された商店街地図が展示され、その前にカラフルな美しい鳥瞰図(ちょうかんず)が広げられていた。また、当時と現代の鐘路を二重写しにして展示されていて、現在の建築物の場所に、京城時代には、何が建っていたかがひと目で分かるようになっていた。韓国では、日本時代は負の遺産として長く否定され、私も「明洞(ミョンドン)はむかしは明治町といったんですか」などと質問して、韓国人から嫌な顔をされた覚えがある。だが、時代は変わった。
この展示は「京城・1930」のテーマでことし3月から6月まで、なんとソウルの清渓川文化館でも開かれて好評を博したという。ソウルという都市は、日韓併合の1910年から、突然1945年に飛んだわけではなく、その間、営々として近代化の道を歩んだのである。
韓流タレントが日本語を学び、韓流ファンの日本人が韓国語を学ぶ時代。日韓の市民が客観的に過去を眺める機会を得たことは、日韓新時代を強く印象づけるものとなった。(編集委員 大野敏明)
冨井正憲教授の写真↓真ん中の眼鏡をかけた男性
http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/upload/1107254604.jpg
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