写真は1999.9.21の台中大地震で被害を受けた白冷圳、この地震のマグニチュードは7.6であり、お隣の国であれば、全壊していたことであろう/YouTubeより
http://youtu.be/5q8BpRKRzb8
2011/9/12、台湾を訪れているみんなの党6名が見学をしている様子も映されている。
昭和7年(1932年)完成の白冷圳は、台中大地震で全体の52%が変形等の被害を受けたが、完全修復され2003/5に再通水が開始された。大地震がなければ、中断することなく稼動していた筈だ。台湾の方がこうして大切に使ってくれることがありがたい。
もう一つのお隣では、歴史的な博物館を目障りだとして解体するのと大違いである。日本人と同じ気持ちを持てる国が台湾であり、そうでない国にはどんな教育をしてもムダであった。困った時だけ友人になり5兆円、それも感謝も何にもない。いくら支援はしても文句は言うが感謝はしない。
それに比して、我が国は中国との国交回復で台湾とは断絶した。にも関わらず、今回の東北大震災では、180億円もの義援金を送っていただいた。誠にありがたい。これも先人のおかげであろう。
【IZA10/21-《盧千恵のフォルモサ便り》白冷しゅう誕生80周年 新社台地に根付いた友情】
□白冷●(=土ヘンに川、しゅう)誕生80周年
先日、江口克彦先生を団長に、みんなの党の8人の方たちが、台湾訪問の忙しい時間を割いて、台中へお見えになるとの連絡がありました。満里子ポワンボフ・フランス駐台湾代表夫人が、著書『Taiwan 楽しいサプライズ!!』の第1行目に「台湾には故宮博物館しかないと思っている?」と問いかけていますが、わたしも同感です。台中市内には、緑濃く水の清い台中公園や、やさしい微笑をたたえた大弥勒菩薩のある宝覚寺などがあり、郊外には楽しい学習のための霧峰地震公園があります。この度、先生方には台中の新社地区に大きな貢献をしてくれた磯田謙雄(のりお)技師を紹介するため『白冷●(=土ヘンに川、しゅう)』をメーンに選びました。
■大規模な灌漑工事
台中の新幹線駅から、50分ほど郊外の道を車で走ると、白冷センのある新社台地に到着します。●(=土ヘンに川)というのは、土辺に川をつけた珍しい字で、「田んぼのほとりの溝」と、台湾の辞書に出ていました。この新社は高台にあり、気候が涼しく、病虫害も少ない農耕地ですが、雨水だけに頼る乾燥畑でした。砂糖の輸出が台湾の経済を潤して以来、台湾総督府は「文化の高低は砂糖消費の多寡によって知られ、糖業の消長はサトウキビ苗の優劣によってきまる」と、サトウキビ苗床に適しているところをさがし、この新社が茎の太いサトウキビの苗作に適しているとの調査報告を受けました。嘉南大●(=土へんに川)、烏山頭(うさんとう)ダムを設計し作り上げた八田(はった)与一技師(1886~1942年)と同じ金沢出身、その工事にもたずさわった磯田謙雄技師が、新社の奥山、八仙山に沿って流れる水量豊富な大甲渓から取水して、814ヘクタールの土地を灌漑(かんがい)する企画設計をしました。
1927年、当時の日本帝国議会で145万円(今の55億円相当)の予算が通り、翌年工事が開始されました。22のトンネルと14の水路橋、さらに、大甲渓中流の白冷台地と新社台地の高低差(22.6メートル)を利用して、水を移動させる3つの逆サイホン装置も作りました。地形の変化を使い、電気などの動力を一切使わない送水路が出来上がったのです。日本から船で運ばれてきた鋼鉄の送水管は、直系1.2メートル、鋼壁1.2センチの立派なもので、同行した若い教授が、当時の日本の鋼鉄技術の高さに感心していました。白冷●(=土へんに川)の工事は1932年に完成しました。
1999年の大震災で、山に変動が起こるまで、68年間絶え間なく、新社地区に灌漑と生活用水を送りこんできたと、台中の農田水利局の幹部は誇らしげに、自分の身内のことを話すように、日本の国会議員に話していました。工事にたずさわった日本人は簡素な宿舎に住み、台湾人と一緒になって、堅固で品質の高い基礎工事を行ったと証言を残しています。
■生活に密着した用水
大震災で、白冷台地と新社台地が同じ標高554.99メートルにまで盛り上がり、逆サイホンが使えなくなりました。そのときになって、3万人の住民は、当たり前のように使っていた白冷●(=土へんに川)から流れてくる水が、どれほど、自分たちの生活をうるおしていたかを再認識したのです。若い人たちは「おいらが村」の歴史、文化を研究し始めました。夫の許世楷は、「金沢の有名な兼六園を訪れたとき、近くの川から園内の霞が池に貯められた水は、さらに逆サイホンの道理を使い、すぐそばにあるお城に用水として引きこまれていたのだと、説明を聞いたことがあるよ」と、若い人たちに話し聞かせていました。わたしも、磯田技師が新社の台地にたたずみ、故郷の兼六園と金沢城を思い浮かべている姿を想像しました。
大震災の後、毎年、通水が始まった10月14日には記念会が持たれるようになりました。朝早く村人たちは大人も子供も、夜のお誕生会の前祝いに白冷●(=土へんに川)の清掃をしました。特に、今年は白冷●(=土へんに川)誕生80周年になりますので、磯田謙雄技師についての記念碑を建立したいと、新社の人々に碑文のための資料探しを頼まれました。金沢出身の岡田直樹参議員にお願いしたところ、詳しい資料が金沢大学に留学中の金湘斌さんを通して送られてきました。旭川観光大使の藤見尚子さんが、「磯田さんが新社の地に残したものと、それを大切にしてくれている台湾人の気持ちを日本の人たちに知ってもらいたい」と、話していたのが心にこだましています。
(許世楷(コー・セーカイ)・元台北駐日経済文化代表処代表の令夫人、盧千恵/SANKEI EXPRESS)
以下の写真中央が江口克彦参議院議員、そのお隣が盧千恵女史と許世楷氏
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◇唸声一言/白冷●(=土へんに川)
何とかならないのだろうか?『白冷圳』と書かれればスッキリする。『深圳』も同じだ。非常に多く使う文字であり、『土へんに川』ではみっともない。『鄧小平』だってそうだ。『トウ小平』ではイメージが違ってくる。新聞ではこれがルールなのかもしれないが、デジタル版にもこんなつまらないルールを持ち込む必要はない。