
写真は天童木工さんのサイトより、柳宗理さんへのお悔やみとバタフライスツールの写真
http://www.tendo-mokko.co.jp/info/?cat=1#1486
以下はメトロポリタン美術館のサイトより
http://www.metmuseum.org/toah/works-of-art/1988.195
これも柳宗理さんのデザイン↓ミャンマーで現役
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/48/0000316848/33/imgb4f96c97zik1zj.jpeg
こちらの聖火台も↓
http://matome.naver.jp/odai/2132486297118478701/2132486514618519003
父は民藝運動の柳宗悦で、祖父は海軍少将の柳楢悦、祖母は嘉納治五郎の姉で柳勝子、柳楢悦の三度目である勝子との結婚は勝海舟の仲立ちがあった。ちなみに勝子の勝は勝海舟の勝を取ってつけられた。たまたま、嘉納治五郎の姉が生まれた時に家に訪問したのが勝海舟であった。
柳宗理の写真↓
http://www.natsume-books.com/img_item/34346.jpg
柳宗悦の写真↓
http://www.nhk-p.co.jp/tenran/img/yanagi_main.jpg
柳楢悦の写真↓
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/hillwind/hill_17/h_17-4.jpg
【IZA12/27-工業デザイナーの草分け 柳宗理さん死去 「美は人々のために」息子が語る父と祖父】
日本の工業デザイナーの草分けで、日本民芸館名誉館長の柳宗理(やなぎ・そうり、本名・むねみち)さんが12月25日、肺炎のため死去した。96歳。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻、文子(ふみこ)さん。
民芸運動創始者で哲学者の柳宗悦(むねよし、1889~1961年)を父に持ち、美の本質を追い求めた生涯だった。宗悦が目を向けたのは手仕事、宗理は大量生産品…2人が歩んだ道は異なるが、「目指すところは一致していた」と宗理氏の息子で柳工業デザイン研究会の柳新一氏(61)は指摘する。今秋、宗悦没後50年を機に新一氏が明かしてくれた「祖父・宗悦、父・宗理の横顔」からは、距離を置きながらも互いに認め合う父子の姿が浮かび上がる。
祖父・宗悦は私が10歳のときに他界したが、英国紳士のように洋服を着こなしていた印象があった。一方、父・宗理はパンツ一丁で家の中を歩き回るような人。幼い頃は利かん坊で、絵描きを志して東京美術学校の洋画科に入るも、(ドイツの造形芸術学校)バウハウスで学んだ教育者、水谷武彦さんの講義がきっかけで、建築やデザインにひかれていく。宗悦から離れようとしたのだろう。戦前に(モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事した)建築家、坂倉準三さんの下で働いていたころ、宗理はある論文で、宗悦と民芸を批判している。
■「到達点は同じ」
そもそも「美(芸術)は人々のためにある」-これが宗悦・宗理に共通する考え方だった。美が王族貴族のものから中産階級、一般庶民のものになっていった19世紀末から20世紀にかけて世界の芸術家たちの中で広まった思想だ。
宗悦は各地で見つけた名もなき美しいものを日々の生活の中で使った。一方、若い宗理は美しいだけでなく、マスプロダクション(大量生産)により「求めやすい価格」を実現し、新素材や技術も取り入れて耐久性や機能にもこだわる日常品を目指した。それが宗理の「人に奉仕する美」で、今さら手仕事を推す宗悦は「後ろ向きの骨董(こっとう)屋」だというわけだ。
ところが戦後、宗理はデザイン活動の中で手仕事に関わっていく。もともと手仕事の中にある美は認めており、それをどう次世代につなぐかをプロダクトデザイナーの視点で考え始める。
民芸運動の仲間も宗理の才能を認め、腕利きの職人を紹介するなど支えてくれた。宗悦も積極的支援はしなかったものの、明らかに宗理を認めていたと思う。
宗悦が亡くなる1961年、宗理は(デザイン専門学校の主任教授として)ドイツに渡った。宗理は出立直前、宗悦と2人きりで話し、「歩む道は違っても、目指す到達点は同じだったと共に確認した」という。
■ビートルズ教えてくれた
私が思うに、2人が「美しい」と感じるものは9割5分、一致していた。ただ、宗理の方が守備範囲は広かった。音楽にも造詣が深く、民族音楽に夢中になったり、ロックもいち早く聴いていた。私にビートルズも教えてくれた。
宗理のデザインはモダンで西洋的だと思われているが、欧米の人から見れば日本的。日本のDNAが無意識に出てくるのだろう。
性格も、得意分野も、時代背景も異なる宗悦・宗理だが、「美(芸術)は人々のためにある」という思いは一つだった。 (談/黒沢綾子/SANKEI EXPRESS)
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■やなぎ・そうり 1915年、東京都出身。38年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。53年、柳工業デザイン研究会を設立。シンプルで使い手の側に立った作品で知られ、普段使いの食器から、札幌五輪の聖火台まで多岐にわたる。代表作「バタフライスツール」はニューヨーク近代美術館の永久コレクションに選ばれた。77年、日本民芸館館長就任。81年に紫綬褒章、2002年に文化功労者に選ばれた。