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写真は、1982/10/30労働新聞の一面を飾ったもの、平壌に到着したカダフィ大佐と握手をする金日成主席/コリアディリーより
http://www.koreadaily.com/news/read.asp?art_id=1160292
1982/10、カダフィ大佐が平壌に来朝、5日間の北朝鮮訪問で両国間親善および協力に関する同盟条約を締結した。
この時、親父に内緒で金正日はカダフィ大佐と核開発について話し合いを持ったかもしれない。金正日が核開発部隊を創設したのが1985年、カダフィ大佐が核開発をはじめたのも1980年代と言われている。
カダフィは途中で核を放棄したが、金正日は核を離さなかった。その違いが生死を分けたと評論家は言う。その通りかもしれないが、万一そうなると独裁者は必ず核を持つことになる。核を持っていても関係なく、攻撃を行なうことが、核不拡散の道でもあるが・・・。
【IZA11/8-《from Editor》金正日総書記とカダフィ大佐 似通う2人】
リビアのカダフィ大佐の死を北朝鮮の金正日総書記はどう受け止めたのか。「…甘い言葉にたぶらかされ、核を放棄した報いの弾丸(たま)だ…」とつぶやいたのか。
中東とアジアの独裁者は同じ1942年生まれ、同時代を生きてきた。2人は過去1度だけ会話を交わした可能性がある。
82年10月、カダフィ大佐が訪朝した。当時ともに40歳。大佐は革命指導者の不動の地位にあり、金正日は金日成の後継指名(80年党大会)を受け、外交分野の実質統治を始めていた時期だ。両国は反米の同志として75年に国交を樹立。82年には軍事同盟を締結し、その署名で訪朝した大佐は5日間、平壌に滞在した。
2人は似ている。個人崇拝、偶像化、絶対統治体制、反米自主、豪華な生活。カダフィ大佐は「緑の書」で、金総書記は「主体思想」で独自の統治イデオロギーを国民に強制した。一族支配と息子への世襲も共通している。ヨットや名馬、ワインやコニャックの好きな20世紀型独裁者の典型だ。2人は意気投合したかもしれない。
70~80年代、北朝鮮からはリビアに延べ1万人の労働者が出稼ぎに行き、トリポリ空港や建設現場で働いた。「リビア体験」は北の労働者の勲章だ。カダフィ大佐は北朝鮮では英雄なのである。
だが、大佐はパンナム機爆破事件(88年)への制裁に屈した。イラク戦争後は攻撃を恐れ核開発放棄を宣言(2003年)。テロ支援国家指定解除を受け、米国との国交を樹立、独裁を緩めて国民の海外旅行を認め、携帯電話やインターネットを解禁した。
金総書記は一連の大佐の「転向」を無視した。いま、大佐の無残な死も一切、無視している。ただ9月末、大佐が逃避行を続けていたさなか朝鮮労働党機関紙「労働新聞」が論説でこう書いた。
「かつて反米を叫んだある国は、帝国主義者への幻想と恐怖で数十年苦労して築いた国防力を自ら破壊する愚かなまねをした」
ルーマニア革命(89年)でチャウシェスク大統領が処刑された際、金総書記は首都ブカレストに平壌から調査員2人を派遣、一部始終を調査させたという。
彼はどんな思いのなかにいる…そんな視点で構成する記事のことを記者仲間で「心境もの」と呼ぶのだが、これがなかなか難しい。人の心の闇は深い。独裁者の孤独は暗い。ただ、金総書記が使える核兵器への執念を高めたことだけは、まず間違いない。(編集委員 久保田るり子)